2015年11月27日金曜日

YesとNo

 もっと意味の範囲を大きく、肯定と否定、とした方がいいかもしれない。物事を肯定したり否定したりするとそれぞれベクトル(方向とちから)を生じる。このちからがどう作用するかは概ね肯定/否定した内容によってくるのだろうけれど、全体の傾向としては、なにがどうやってもどうしても行き詰まったらYesを選ぶのが吉らしいという感覚を得るに至った。過ぎたことだから告白するが、割と最近(今年の初夏の話だ)自死を試みた経験がある。手ぬぐいを輪にしてドアノブで吊ろうとしたのだ。幸いというか運悪くというか、無意識にばたつかせた手足のおかげでノブから手ぬぐいが外れ落ち、死に損ねた。振り返るに、この時の一連の行動は一貫してNoが頭の中を覆い尽くし、他の何物も入り込む余地のない状態だった。自死とは自分自身の全否定というのがその時身体で覚えたことだ。この自死に限らず、暴力や差別も否定のちからを伴う行為だ。対象の存在を否定する行為でありちからだ。こういったちからに何か生産性があるか、と問われれば否だ。対象を潰すことで得られるものがあるとすれば、信条、宗教的心理による外的意味付けがなされたものであって行為そのものが尊いわけでは決してない。
 話が逸脱した。言わんとする所は、先行き詰まってどうにも身動き取れなくなった時に判断をくださないといけないとなれば、そこは肯定のちからに頼るのがいいというのが身を持って感じたとこだ。多分これはこれからの人生、いろいろ詰まることも多いだろうけれど、その場その場での選択に大きく影響する事柄だと思う。詰まった時には深く考えることすら不可能な時が多々あるだろう。もっと単純に「行き詰まったらYes」と心しておけば、最低でも生きていけるように思う。

2015年11月2日月曜日

記憶障害のこと

 ここのところしばらく引っ込んでいた乖離性記憶障害がまたぞろ頭をもたげてきた。スマホのメモ帳が記憶に無いメモで埋まっているとちょっと自分でも引いてしまう。まだ軽度の記憶障害ということもあって、担当医も気に病みすぎるほうが良くないと言っていたが、それでもやはりなんとも日常生活に不安を感じてしまうよな。実際、軽度であれ乖離が起きていることから、意識していなくてもそれなりのストレスを感じているのだろうし。こうなってくるとその日を終えるのに手一杯で、マインドマップやらキャラクターシートやら埋めていくのが二の次三の次になってしまう。はてさて、まいったな……